理性

 人間が人間である意味は何なのだろうか。僕には未だ答えがわからない。

 いつの間にか僕たちが過ごす場にはアルコールが用意されることが多くなり、本当に安心できる場所はもうこの世界には存在しないかのようだった。

 わざわざアルコールで理性を捨てたがるのであれば、そもそも人間になんて生まれてこなければよかったのに。

 

 薄汚れた繁華街の片隅の陽の当たらない一室で、白く細い首を絞めながら、僕はいっそ初めから獣でありたかった。

 人間になんて生まれたくなかった。

距離

 いつからか、街中で女性に声をかけるようになっていた。ご飯を食べて解散することもあれば、そのままホテルに行くこともあった。連絡先を聞いても大抵は一度きりの出会いだった。
 僕なんかが声をかけて付いてきてくれる人は誰にでも付いてゆくような人で、それはつまり寂しい人だった。僕も同じで、相手は誰でもよかった。ただ、寂しかった。

 

 セックスがナンパのゴールなのだろうか。だとしたら、僕にとってナンパは自傷行為だ。ベッドの上で身体を重ねれば重ねるほど、腹の奥の方がえぐられるような不快感を覚える。あとでその瞬間を思い出しては、ドロドロとした胃液の塊がせり上がってくるような吐き気がする。
 誰でもよかったのだ。自分も、相手も。誰でもいいから今夜のこの寂しさを埋めてくれる存在が欲しいだけなのだ。そう思うとまた一気に虚しい気持ちになる。だけれども、僕はまた街角に立つ。そしてまた傷つく。街角に立つ。傷つく。その繰り返しだった。

 

 どれだけ肌を触れ合わせても、本当の意味では触れ合っていないように思われた。彼女はそこにいながらにして、また同時にいなかった。僕はいつも虚空に向かって腰を振る。
 あんなに誰かを求めていたはずなのに、いざその瞬間になると自分自身の悲しさに耐え切れずに冷静になってしまう。そうなるとセックスはもうただの作業だ。僕は機械的に丁寧な愛撫をしては、せめて表面だけでもこの時間を幸せなものと感じているように演じる。そしてそのことが相手に申し訳なくて、また心が痛んだ。

 

 つまるところ、自分の人格を認めてほしいのかもしれない。ただひとりの人間を愛したいのかもしれない。でもその方法を知らなくて、また安易な承認を求めてしまう。こんなことは何の根本的な解決にならないと知っているからこそ、切なくて虚しくて寂しい。

 誰かと過ごす夜があれば、ひとりで過ごす夜もある。今の僕にとってはどちらも苦痛に変わりなくて、また今日も眠れない夜がやってくる。

肩こり

 窓のない部屋のベッドの上で、僕はじっと壁の模様を眺めていた。後ろに寝転がる女が僕の肩に手を置いて「肩、ちょっと凝ってるね」と言った。僕は黙ったまま壁の模様を眺めていた。
 僕は、肩が凝っているという感覚がどういうものかを知らない。自分で自分の肩に手を置いてみても、いつも変わらなく柔らかいから、自分は肩こりなどしないものだと決めつけていた。しかし女は僕の肩が凝っていると言う。事実として僕は肩に何の不自由も感じていないのだが、女がそういうのなら僕の肩は凝っているのだろう。
 僕はますます肩こりというものが分からなくなった。身体の感覚は自分しか感じ取れないにもかかわらず、どうして皆が肩こりという感覚を共有しているのか不思議で仕方がない。確かに尿意などの感覚は他人と共有しているから、肩こりに関してのみ自分の感覚がおかしいのかもしれないなと仮説を立ててみても、それを検証する術を僕は知らない。

 白と黒の唐草模様の壁紙を眺めながら、そんなことをぼんやり考えていた。部屋に微かに残る煙草の匂いは、その内に深い憂愁を抱え込んでいて、息を吸うたびにひどく気分が落ち込んだ。後ろから女が抱き着いてきたが、それは僕の心を晴れやかにするどころか、より一層の愁いを加えるのだった。身体がどれほど触れようとも、僕は彼女の知っている肩こりという感覚を理解できないし、それは詰まるところ、僕たちは誰もが本当の意味で他人を理解できないということを示しているように思えたのだ。
 彼女と知り合って3か月になるが、僕は未だに彼女の苗字すら知らない。こうしてこの場にいるのも束の間の慰めにすぎなくて、それを理解したうえで、それでも彼女は僕を抱きしめるのだった。今夜、孤独な夜の住人になることを拒んだ僕たちは、肩こりの感覚すら共有できないままに悲しみを重ね合わせる。

ディスプレイ

 仕事始めが1月8日からなのを良いことに、朝の7時に寝て18時頃に起きるという生活をもう10日ほど続けている。当初の予定ではどこか遠い場所へ旅行に行くつもりだったが、諸般の事情で断念してしまった。部屋から出ることも殆どなく、もちろん家からは全く出ていない。

 仕事を始めてから部屋の中は荒れ始めた。山のように積み重なった書類や、床を敷き詰める衣服、食べたあとのカップ麺や綺麗に並べられた空き缶、空き瓶。あまり丸一日の休みがない仕事だからそれを言い訳にして、休みができたら片付けようと考えていた。12連休も終わりを迎えようとするころ、部屋は相変わらず悲惨なままで、ふと我に返った瞬間激しい嫌悪と憂いに包まれる。

 休みの間にやりたいことがたくさんあったのに何もできなかった。しなかったのではなくできなかった。自分はまとまった時間を与えられると途端になにもできなくなる。

 ただ一晩中、ベッドに寝転がってぼんやりしていた。

 

 部屋のあらゆる場所に、埃が積もり始めていることを僕は知っている。だけど、自分にはもうそれをどうにかする力がないような気がしている。訪れるものに対して抗う力を失くしてしまったのだろう。徐々に荒れゆく部屋のように、徐々に降り積もる埃のように、ただ何もできないままに破綻へと流れてゆくように思われる。

 「ぼんやりした不安」という言葉はどうして僕たちを捕らえて放さないのだろう。このまま時が流れても、何もかもが好転しないまま静かに確実に沈んでゆくに違いない。エアコンの音だけが静かに響く六畳間でそんなことを想うとき、逃げることすらできない自分は、もういっそのこと発狂してしまいたくなる。

 廊下に鳩が迷い込んでいた。20mほどのやや短い廊下には他に誰もおらず、僕と鳩はすっかり見つめ合う格好となった。鳩はまるで動かないままじっと座っていた。本当に生きているのだろうかと不安になり、近寄って観察してみる。目は開いているものの呼吸をしている気配すらなかった。薄灰色の体毛に所々黒い色が混じり、首の部分は淡い緑に染まっている。そのコントラストが、ぼんやり疲れ切った頭にはとても美しいもののように思えた。
 廊下には誰もやってこなかった。初秋の風が木々を揺らす音だけが微かに聞こえる。僕はその美しい羽根模様をもう少しよく見たいと、静かに一歩踏み出した。
 その瞬間、鳩は命を吹き込まれたように飛び立った。バタバタと大きな音をたて、廊下の向かい側にある小窓の縁に着地した。そこで一呼吸置いたかと思うと、それから何度も何度も窓の外へ飛び立とうと羽ばたいた。約40cm四方の小さな窓の外には抜けるような青空が広がっていて、薄暗い廊下から眺めるそれは僕をどうしようもなく憂鬱にさせた。
 鳩は大空へ向けて何度も何度も何度も何度も羽ばたいた。窓の縁に積もっていた埃が激しく舞う。光を受けた埃は不思議とキラキラ光った。鳩はそんなことにも一切構わず、ただひたすら狂ったように空を目指し続けた。
 僕は何もできなかった。ただじっと突っ立ったままその様子を見ていた。そこからじゃダメだよと教えてあげたかったけれど、その術がなかった。僕は黙って歩き始めた。短い廊下を折れ曲がっても羽根の音はずっと響いていた。
 自分の席に戻ってパソコンを立ち上げる。15.6インチのディスプレイに遠く異国の空が浮かび上がった。

7時10分

 大阪駅で電車を降りる。ちょうど向かいのホームにも電車が止まって、更なる人の群れが階段へと押し寄せる。
 階段からその先の通路へと、群勢がのそりのそりと歩くのだが、みんながゆっくりと同じ方向へ歩く様子はまるでゾンビのようだ。僕も死んだような目をして毎朝それに加わっている。

 階段を再び登って乗り換え先のホームへたどり着く。大抵はタイミングよく一番前に並ぶことができる。僕はいつもここで顔を上げて、遠く、向こうの11番ホームを眺める。

 11番ホーム。特急サンダーバードがそこから出る。7時40分、金沢行きの始発。まだ停車していないけれど、きっと30分後にはあそこから出発するんだ。それに飛び乗ってしまうことができたなら、どんなにか素晴らしい世界が僕を待っているだろう。 

 それに飛び乗ってしまうことができたなら。

 

 目の前に電車が滑り込んでくる。毎朝乗っているのに、この電車がどこから来るのか僕は知らない。ただ、とんでもなく混んでいて、乗客の大半が大阪駅で降りるということしか知らない。僕はこの電車に4分間しか乗らないのだ。

 電車のドアが開くと同時に、異臭が鼻を突く。濃縮された人間の臭い。僕は思わず顔を背けてしまう。降車が一通り済んだ後の車内は比較的空いているのだが、臭いだけは消えずにずっと残っている。

 僕は眉間に深い皺を作り、なるべく息を吸わないようにしながら窓際に立つ。4分間の辛抱だ、4分間の辛抱だと自分に言い聞かせる。

 ふと、また11番ホームが目に入った。サンダーバード。まだ停車していない。僕はまだそれを見たことすらない。でもきっと、きっとあそこから、見知らぬ世界へ。

雨の日に咲く花

 雨のホームに電車が滑り込んできた。人々がまるで家畜のように、ひょっとしたら家畜より酷い環境に詰め込まれて運ばれる。濡れた人々が電車の窓を白く曇らせて、それを見るたびに僕は、人間もまた動物の一種類であると知る。

 僕はスーツを着るとき、靴下、ワイシャツ、ズボンの順で身に着けてゆく。その途中で発生する、靴下とワイシャツだけの姿がどうしようもなく情けなくて嫌いだ。この社会で生きることの惨めさが、あの姿に全て詰め込まれているような気がする。
皆が偉そうに着ているスーツの下にあの情けない姿が隠されているのかと考えると、なんとも馬鹿らしい気分になる。僕たちを取り巻いているものは、きっとそのほとんどがインチキだ。本当に大切なものは、目に見えない。

 電車のドアが開いた瞬間はいつも「ウッ」と身構えてしまう。自分もこの一員にならなければならないのだ。無表情で電車に乗り込み、人の流れに身を委ねて、無抵抗に輸送されてゆく。車内は濡れた人間の臭いが充満していて、それはアジアの薄汚れた路地裏のどれよりも臭かった。
 南京虫が大量にいる最悪の宿で出会った、まるでヒッピーの再来のようなイスラエル人。彼はきっと、今の僕を見ての頭がおかしくなったと言うだろう。黒い服を着て、みみっちい鞄を手に持って、毎日同じ時間に同じ電車に乗る。
 彼の口癖は"crazy!"だった。

 crazyな社会で平静を保つため、僕たちは常に狂っていなければならない。その狂気はきっと、自分の最も大切なものを守るための狂気だ。ワイシャツと靴下だけを身に着けた、惨めな姿。

 電車から見えるビル群は薄暗い沈黙に沈んでいた。後ろの男のリュックサックがしきりに僕の腕に当たる。隣に立つ男が口を覆わないままに激しい咳をした。向こうの方で電話の着信音が鳴って、みんなが訝しげに一瞥する。僕はじっと動かないまま目を瞑って、今この瞬間に、遠くどこかの大地で人知れず咲いている一輪の花を想像した。