踊り子

 人は歩く時に手を前後に揺らす。その方が歩きやすいからだ。

 その右手が何かの拍子に自分の太ももを掠める。そうすると、同じように左手も自分の太ももを掠めさせないと気が済まない。しかもその掠め方、力の入れ具合は"全く同じ"ようでなければ気持ちが悪くて仕方がない。

 左足が点字ブロックを踏めば、全く同じ圧力で、右足の該当する部分によって点字ブロックを踏まなければ気持ちが悪い。

 作業の休憩中に首を回したら、左右のストレッチのかかり方が均一でなかった。どうにかバランスを取ろうとあちらこちらの関節を動かす。そうして動かした身体が、また左右の不均衡を生じさせ、その気持ち悪さから逃れようと更に身体を動かす僕は、はたから見ると奇妙なダンスを踊っているように見えるだろう。

消費する葦

 あまり地上波は見ないけど、家に帰ったらとりあえずFireStickでYouTubeを開いて、目的もなく動画を垂れ流している。

 休日はショッピングモールに出かけて行っては、ふと目についたTシャツや鞄を買ってしまったりする。何かしらの外食をしたりして帰ってくる。

 生活のありとあらゆる瞬間に僕は消費活動を行い、そこで費やした時間や金銭は誰かの消費の原資となり、また新たな消費活動へと連なってゆく。

 

 西にちいかわがあると聞けば、行ってこれを買い求め、

 東にポケモンがあると聞けば、行ってこれを買い求める。そんな2025年を生きている。

 

 ただひたすらに射幸心を煽るギャンブルのように、ただひたすらに消費活動を煽られながら生きている。ここにおいて私たちは、一時的で空虚な快楽に突き動かされて生きるように強いられており、主体的な人生を歩んでいるとは言えない。他者に、あるいは社会に利益を生み出すために、私の意志決定がコントロールされている。

 ちいかわもポケモンも、ターゲット年代は(20~)30代から40代くらいかと思うが、昭和の時代の3,40代が、こんなにも子ども趣味だったとは思わない。娯楽の充実と多様化に伴って私たちは「金のある子ども」に止め置かれているように感じる。

 

 消費で得られる満足は持続しない。なぜならそれが文字通り「費やして消えてしまう」ものだからだ。

 僕は自分の人生を生きたい。他者の奴隷になって貢ぎ物を捧げ続けるなんてゴメンだ。でもまた家に帰るとYouTubeを開いてしまう。消費の反対は生産だろうか。自分は何か生み出しているか。手のひらを見つめて考える。

残滓

結婚して5年が経った。

当初は失礼なことに人生の可能性が狭くなったことなどを嘆いたものだが、5年も経つと、そして年齢も重ねてくると、身近に幸福を分け合うことができる人間がいるというのは楽しいものだ。

こんな人生でも案外悪くないな、なんてことをよく思う。美味しいものは二人で食べたいし、旅行だって二人で行きたい。

10代を振り返ってみると、両親からそれなりに愛されていたことが理屈としては理解できるのだが、実感として愛されていた感覚を得ているかというと全く別問題で、ずっと愛情を欠乏させたまま生きてきたような気がする。一人で強く生きることを指向したのも、愛情を理解しないが故の愛情への忌避であったように思われる。

いま、偶然、婚姻の機会を得て、愛し愛されるという現象に浸りながら、欠乏していた心のピースが埋め合わされていることを感じる。

 

しかしそれでも、時折何もかもが無意味に思えてしまう。全てがどうでもよくなって、またあの頃のように夕焼け空を背景に隕石が落ちてきて、世界が滅亡することを夢想する。

時折あらわれる心の淵は、平生を幸せに過ごしているからこそ、その暗さが際立って見える。

結局7月5日には何も起こらず、相も変わらずクソみたいな満員電車で運搬され、きわめて中途半端に世界を呪いながら何も解決しないダラダラとした情けない生を伸ばし続けることしかできない。自分に顔向けできない。いっそ殺してくれ。

檸檬

 今日が十五夜だと聞いてみたらし団子を買った。

 少しだけ寄り道して、でも帰るのが遅くならないような、10分くらい足を伸ばすだけの寄り道をして、みたらし団子を買った。店は新しくて綺麗だった。受け取った団子は暖かく、コピーしたての紙の束のようだった。

 梶井基次郎は檸檬をして「すべての善いものと、すべての美しいものを重量に換算してきた重さ」と称したが、今日の自分にとっては、帰宅してから妻と共に美味しいねなんて言いながら食べることを想像して駅までの道を急ぐ途中に、みたらしが流れないように箱を水平に保ちながら持つ、その手に伝わる暖かさと重さこそが、幸福の形象なのであった。  

救い

 「死は救済」を合言葉に15年ほど過ごしてきた。死が全てから解放してくれると信じてやまない青春だった。しかし年月は環境を変え、人を変える。いま改めて死という現象に向き合ったとき、そこに以前のような救済を見出すことが難しくなっていた。

 死はあらゆるものを無に還す。そこにあるのは「無」のみであり、救済とは別次元の問題だ。

 

 そもそも救済には

① 物事がAからBへと移行する。

② 移行後のBがAより優れた状態である。

という二つの要素が必要だ。

 

 我々は概して苦しみや辛さ(以降「苦しみ」と一本化して呼ぶ)から逃れる為に死を夢想しがちであるが、死という現象はそうした苦しみ自体の解消には関与しない。死がもたらすものはあくまで肉体・精神の静止であるから、ここでは人を死に追いやる苦しみ自体には何ら触れられていない。死は救済などではなく、永遠と続く一時停止だ。この場合、救済の機会は永遠に訪れない。

 

 ではどうすれば救済を得ることができるのか。

 A(苦しい状態)からB(苦しくない状態)への以降が必要なのであるが、ここで念頭に置くべきは、B(苦しくない状態)へと以降したといっても、過去に負った傷は消えないということだ。

 過去にあった事実は変化させようがない。傷はその身に刻まれ、いつでも自分自身を傷つける。失われた青春を取り戻そうと今更努力したって、満たされない青春を送ったという事実は消えないのだ。

 だから、完璧な救済などというものは存在しない。あるのは「相対的に救済された状態」だけだ。真の救済の不在を認めた瞬間から、相対的救済へと至る道が開かれる。

 

 結局傷を舐めながらよりマシな人生を歩んでいこうと努力するしかないのだ。過去の苦しみの事実は消えないが、幸せの記憶によって苦しみを和らげることが現実的現世救済なのだ。

狂い

 朝、駅から職場まで歩く10分間。僕は狂気を増幅させようと試みる。
 この作業を怠ると、自分が自分でなくなってしまうかもしれないという恐怖がある。

 平穏は何も生まない。惨めな生が今日も明日も続くだけだ。
 世界に対して常に反逆しなければならない。反逆を"企てる"だけの存在になってはならない。それは自分自身を慰めるポルノにしかならないからだ。もっと根源的な狂気を持ち続けろ。生きる意味を考え続けなければならない。誇り高く生きろ。そのために必要なのは狂気だ。この世界全体を憎め。全て殺すぞという気持ちを強く持って今日という日を過ごせ。社会に迎合するな。

欺瞞

 珍しくイヤホンをしないで電車に乗った。
 電車の走る音がガタガタとうるさくて、ふと斜め後ろを見たら窓が開いていた。地下鉄だから反響してより大きな音になっていたのだろう。
 前に電車通勤をしていた4,5年前でもその音は鳴っていたのだろうが、その頃は窓が開いていなかった。僕は初めて電車の音を聞いたような気持ちになった。実際、電車の中から電車の音を聞く機会なんてほとんど無かったはずなのだ。

 電車はガタガタと生々しく音を立てて進んだ。電車はずっとこの音を鳴らしていたはずなのに、窓という障壁がその音を消し、僕はイヤホンによってその音を消していた。まるで互いの共犯関係によって作り出されていた無菌室のようだと思った。
 ポルノにモザイクをかけるように、ホームレスを排除するように、僕たちは生々しさから遠ざけられる。そして時には自分自身の肉体が持つ生々しさすら忘れようとする。
 人間なんて汚い生き物だ。それは他の動物と特段変わることはない。道端に吐き出されたゲロは汚く見えるが、あれと同じものを僕たちは常に体の中に抱えている。

 人間は欺瞞に満ちている。何よりもまず生き物なのに、その本能的・生理的側面をひた隠しにすることは不誠実だ。電車の窓を開けさせたウイルスは、人間が汚い存在であることをはっきりと示してくれる。
 電車を降りてビルの隙間から覗く空は底抜けに綺麗だ。この空を見るたびに僕は人類が滅びたあとの世界を夢想する。