欺瞞

 珍しくイヤホンをしないで電車に乗った。
 電車の走る音がガタガタとうるさくて、ふと斜め後ろを見たら窓が開いていた。地下鉄だから反響してより大きな音になっていたのだろう。
 前に電車通勤をしていた4,5年前でもその音は鳴っていたのだろうが、その頃は窓が開いていなかった。僕は初めて電車の音を聞いたような気持ちになった。実際、電車の中から電車の音を聞く機会なんてほとんど無かったはずなのだ。

 電車はガタガタと生々しく音を立てて進んだ。電車はずっとこの音を鳴らしていたはずなのに、窓という障壁がその音を消し、僕はイヤホンによってその音を消していた。まるで互いの共犯関係によって作り出されていた無菌室のようだと思った。
 ポルノにモザイクをかけるように、ホームレスを排除するように、僕たちは生々しさから遠ざけられる。そして時には自分自身の肉体が持つ生々しさすら忘れようとする。
 人間なんて汚い生き物だ。それは他の動物と特段変わることはない。道端に吐き出されたゲロは汚く見えるが、あれと同じものを僕たちは常に体の中に抱えている。

 人間は欺瞞に満ちている。何よりもまず生き物なのに、その本能的・生理的側面をひた隠しにすることは不誠実だ。電車の窓を開けさせたウイルスは、人間が汚い存在であることをはっきりと示してくれる。
 電車を降りてビルの隙間から覗く空は底抜けに綺麗だ。この空を見るたびに僕は人類が滅びたあとの世界を夢想する。