救い

 「死は救済」を合言葉に15年ほど過ごしてきた。死が全てから解放してくれると信じてやまない青春だった。しかし年月は環境を変え、人を変える。いま改めて死という現象に向き合ったとき、そこに以前のような救済を見出すことが難しくなっていた。

 死はあらゆるものを無に還す。そこにあるのは「無」のみであり、救済とは別次元の問題だ。

 

 そもそも救済には

① 物事がAからBへと移行する。

② 移行後のBがAより優れた状態である。

という二つの要素が必要だ。

 

 我々は概して苦しみや辛さ(以降「苦しみ」と一本化して呼ぶ)から逃れる為に死を夢想しがちであるが、死という現象はそうした苦しみ自体の解消には関与しない。死がもたらすものはあくまで肉体・精神の静止であるから、ここでは人を死に追いやる苦しみ自体には何ら触れられていない。死は救済などではなく、永遠と続く一時停止だ。この場合、救済の機会は永遠に訪れない。

 

 ではどうすれば救済を得ることができるのか。

 A(苦しい状態)からB(苦しくない状態)への以降が必要なのであるが、ここで念頭に置くべきは、B(苦しくない状態)へと以降したといっても、過去に負った傷は消えないということだ。

 過去にあった事実は変化させようがない。傷はその身に刻まれ、いつでも自分自身を傷つける。失われた青春を取り戻そうと今更努力したって、満たされない青春を送ったという事実は消えないのだ。

 だから、完璧な救済などというものは存在しない。あるのは「相対的に救済された状態」だけだ。真の救済の不在を認めた瞬間から、相対的救済へと至る道が開かれる。

 

 結局傷を舐めながらよりマシな人生を歩んでいこうと努力するしかないのだ。過去の苦しみの事実は消えないが、幸せの記憶によって苦しみを和らげることが現実的現世救済なのだ。