ユスリカの命

 ユスリカという虫がいる。体長は0.5cmほどで、蚊柱の正体がこれだ。

 この時期になると、よく室内にも入り込んでくる。僕の場合は特に大学の研究室がひどい。うっかりカーテンを閉めずに夜まで作業しているとそこら中にユスリカが現れて、本を閉じるのにも挟んでしまわないかと気を遣う。

 ユスリカは基本的に無害だ。そりゃまぁ顔に当たったりして鬱陶しいけど、蚊と違って血を吸ったりすることはないし、そもそも彼らには口がない。消化器だってすっかり退化してしまっていて、寿命は2,3日しかない。蚊柱は一匹の雌と数百の雄で構成されていて、あそこで彼らは交尾相手を探している。交尾・産卵を終えた成虫はすぐに死んでしまう。

 吉野弘は蜉蝣を指して「目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみ」と言った。僕は夕暮れの帰り道で蚊柱に出会うと、いつもこの言葉を思い出す。与えられた数日の命の中で、彼らは文字通り"必死"になって繁殖相手を探す。相手を見つけて死んだ命と、見つけられずに死んだ命。途方もない数の生命がこれまでに生まれて、死んでいった。そうした生命の連なりに思いを馳せてみると、僕はもう、その場から動けなくなる。

 家に帰って自室に入ると、机の上に一匹のユスリカがいた。儚く、切ない、憐れなユスリカ。きっとこの一匹は、繁殖相手を見つけられず、子孫を残すことなくこの部屋の中で死ぬだろう。

 椅子に座ってしばらくユスリカを眺めた。飛び立とうとする気配はない。僕はゆっくりと手を伸ばすと、人差し指を立てて、そっとユスリカを押し潰した。音もなく、ひとつの灯が消えた。