イクラ丼とエゴイズム

 イクラ丼をもちゃもちゃ食べた。とても美味しかった。

 だけど、食べている最中にふと「この、ひと粒ひと粒が生命なんだな」ということに改めて気が付いて、少し落ち込んでしまった。生まれることすら許されない命を喰らって僕は今日も生きる。

 僕は普段「生命を奪って生きている」という当たり前の事実さえ忘れかけている。そして、イクラ丼のような分かりやすい例を示されるとその瞬間だけ自身の罪深さに思いを馳せる。たぶん明日には何もかも忘れて、食事の前には"形式的に"「いただきます」と言うだろう。

 

 他の生命を奪うことについては仕方のないことだし、別に止めた方がいいなんて思わないし言わない。僕はそれより「イクラ丼を食べて、"生命を奪って生きること"について考えている自分自身」に人間としてのどうしようもないエゴを感じた。

 イクラ丼のような分かりやすさを提示された瞬間だけ、神妙な顔をして他の生命に感謝している。どうせこれからもずっと生命を奪うし、それを止めるつもりなんて全くないのに、少し悟ったような顔をして「我々はたくさんの生命に支えられて生きている」なんて考える。

 生命を奪うことが動物としての「本能」なら、生命を想うことは人間としての「理性」だろうか。

 そうだとすれば、食事に関しては本能がほとんどを支配していると言っていいだろう。我々は動物であることから逃れられない。それなのに、時々理性が出張ってきて、本能の行いを嘆き、言い訳のように「生きるためには仕方がないから」と言って、「生命に感謝」する。

 その感謝には本来の「生命に対する畏敬の念」の他に「自身の罪から逃れるための慰め」という効果がある。ふとした瞬間に本能の罪を捉えてしまった理性が、必死に自己弁護しているに過ぎない。

 それら全ての行動は圧倒的に正しいし、"多くの生命に支えられながら生きている"という意識は常に持っておかなければならないけれど、そう考えることはやはり人間のエゴイズムでもある。