橋を渡って

 犬に噛まれたら24時間以内に一本目のワクチンを打たなければならなかったはずだ。狂犬病が発病すれば、100%死ぬ。

 不意に見知らぬ田舎町で病院を探さなければならなくなった。手持ちの本によると、ロシア語で病院は「バリニーツァ」と言うらしい。僕は通りを歩く人を捉まえては「バリニーツァ!バリニーツァ!」と唱えた。ようやくたどり着いたそこは寂れた小さな建物で、中に入ると数人の女性が談笑していた。僕を見ると何かロシア語で言ったが、何を言っているかは分からなかった。そうこうしていると、ひとりが立ち上がって奥へ人を呼びに行った。出てきたのは若い男で、少し英語を話した。彼がここの医者だった。

 奥の部屋に通され、拙い英語と身振り手振りで自分に起こったことを説明する。ひととおりの説明が終わったあと、彼は傷口の消毒をしてくれた。噛まれたのは太ももで、ジーンズには大きな穴が開いていた。ジーンズは1月に買ったばかりだった。

 

 消毒のあと、彼は紙に薬の名前を書いて「これを薬局で買って一日三回、一週間飲み続けなさい」と言った。親切な人で、何か心配なことがあったら電話してきなさいと電話番号も教えてもらった。結局ワクチンの接種はなかった。そもそも、ここにはワクチンが無いらしい。病院の向かいの薬局で薬を買って帰った。薬代は200円にもならなかった。

 宿に帰って薬を開けてみる。もらった薬は二種類。包装に何か書いてあるがキリル文字で何も読めない。これはいったい何の薬なのだろう。薬を飲んで狂犬病に対応したなんて話を僕は聞いたことがない。犬に噛まれたらワクチンを打つというのが常識だと思っていた。ワクチンさえ打つことができればまず発症しないのだ。ワクチンさえあれば……

 

 さっそく一回目の薬を飲むことにした。白い錠剤と、赤いカプセル。ふたつは掌の上で頼りなさげに揺れていた。この小さな薬で僕の命を救えるのか。部屋の薄暗い照明に透かして眺めてみる。医者は本当に僕の状況を理解しただろうか。僕は疲れた頭でぼんやりと「自分が死んだら、みんなはどんな反応をするのだろう」なんてことを考えていた。