追い出されたもの

 受験勉強中によく目にしたことばに「スキマ時間を有効に活用しよう!」というものがあった。電車の中や休み時間などのちょっとした時間に単語帳なり参考書なりを開いて勉強しようということだ。僕もそうした言葉に影響されて少しでも時間があれば英単語帳を開くことを習慣づけていた。これは実際有効なことだったと思う。僕の英語の成績の半分近くはこのスキマの勉強によるものだったと言っていいだろう。

 そして4年が経った。現在、僕たちがスキマ時間にすることは何か。ホームで電車を待つ僅かな時間。授業が始まるまでの僅かな時間。待ち合わせに早く着いた僅かな時間。僕は気が付くとスマートフォンを触っている。スマートフォンはそうしたスキマに上手く入り込んで、一瞬の安らぎを与えてくれる。五分前に確認したタイムラインをもう一度開いてみる。僕はタイムラインを開く前からその風景がさっきとそれほど変わっていないことを知っている。愚かだと思うけれどやめられない。

 もちろん、スマートフォンを触る時間が完全に無駄だとは思わない。スマートフォンから得られる有益な情報やアイデアだってたくさんあるし、僕自身その恩恵をたくさん受けた。だけど、もし僕がスマートフォンを持っていなかったら?僕は一体何が出来ただろうか。電車を待つ間、辺りの風景をぼんやりと見渡す。僕はそこにノースポールの花を見つけるかもしれない。向こうに太った雀が見えるかもしれない。はたまた、素敵な詩でも思い浮かぶかもしれない。

 スマートフォンを触るということは極めて受動的な暇のつぶし方であると僕は思う。そこには溢れんばかりの情報が渦巻いていて、目にとまったひとつを適当に選べばとりあえずその場の五分は埋められる。一方、スマートフォンのない生活では僕たちは能動的に暇つぶしをしなければならない。道行く人々の様子や街路樹の色付きなどを観察してみる。ふと空に向かって白い息を吐いてみて、その行方を何となく眺めてみる。そうこうしているうちに何か新しいアイデアが思いついて、そこから自分自身との対話が始まるかもしれない。

 「ひとり旅」がしばしば「自分探し」と言われるのには理由がある。ひとり旅といえば何となく聞こえはいいが、その実際は孤独が大半を占める。バスに揺られて見知らぬ風景をぼんやりと眺めているとき、彼や彼女は自分自身の内面を見つめている。ひとり旅で最も価値のあることは"自分自身と対話する時間が腐るほどある"ということなのだと僕は思っている。孤独は必然的に自身の目を内側に向け、その結果として自分自身が"発見"されてしまうのだ。

 日本に帰ってきてしばらくの間こそスキマ時間を能動的に過ごしていたけれど、今ではすっかりスマートフォン三昧だ。そうして過ぎ去っていった膨大な時間の中にいったいどれ程の"気付き"や"発見"を落としてきたのだろうと考えると、僕は後悔の海に放り出されてしまう。そして今度は前向きに、この後悔が2015年の間ずっと続いて、スマートフォンと適度な距離でいいお付き合いができるようになればいいなと思う。