視野狭窄の末

 デイパックが本格的に壊れ始めてきた。

 長期旅行に持ってきた鞄はふたつ。ひとつは、いわゆる「バックパック」で登山用の大きなものだ。もうひとつは「デイパック」。街歩きをするときにカメラや貴重品を入れるのに使っている。

 このデイパックは3年前にカンボジアで買った。前に使っていた鞄が壊れてしまって急遽買ったのだ。30ドルと言われたのを15ドルにまで値切った。15ドルでも渋っていたら店の女性が「この子を病院に連れて行かなきゃならないんだよ」と床で絵を描いている子どもを指さして言った。もちろん嘘であることは分かっていたが、僕は「それなら仕方がないなぁ」なんて言いながら買った。店主曰く"Not Fake"のTHE NORTH FACEを当時のレートで1300円くらいで手に入れたのだ。

 それ以来3年間の相棒とでも言うべき存在。ベルトは千切れ、中のスポンジが飛び出し、インド人にハサミで破られ、その度に自分の手で縫った。補修は十数ヵ所に及ぶ。毎日1.5リットルの水とパソコンとカメラとその他の細々した物を入れて、8キロくらいになった。それを10か月以上続けた。台湾に行った際は自転車の荷台に縛り付けられ、後輪が巻き上げる泥に汚れ、排気ガスにまみれた。

 すっかりくたびれた様子のデイパックは、数日前から勝手にファスナーが開くようになっていた。ファスナーを閉めても、どこか適当な場所から自然と解けていってしまう。左右の結合自体が弱くなっているようだった。

 気が付けば中身が全開になっていたりして、もはや鞄の体を成していない。このファスナーも何度か補修したのだが、今度ばかりはどうしようもなさそうだ。もう潮時なのだろう。

 

 デイパックだけではない。僕の身の回りの物はどれもこれもがその内に深い疲労を溜め込んでいるようだった。もう5年近く稼働している薄手のマウンテンジャケットは生地がくたびれ、光沢はなく、縫い跡が痛々しく(同じくインドで切られた)、ゴムは引き千切れそうだ。いつも一番外側に着て排気ガスや砂埃に晒されているから、なんとも言えない香ばしい臭いがする。ズボンはこの前犬に噛まれて破れた(自分で縫った)。2年前にサラエボで買ったブーツは所々が擦り切れ、汚れのせいでグラデーションの模様が付き、底がパカパカと鳴る。土や泥、塩やペンキで薄汚れたバックパックは物寂しげに部屋の隅で沈黙している。

 

 あらゆるものが死に向かっているようだった。長期旅行者の中には稀に退廃的な死臭を醸し出すタイプの人間がいるが、僕もそうした人間に近付きつつあるように思えた。

 昨日、町で日本人のカップルを見掛けた。数週間ぶりの日本人だった。年は20台後半くらいだろうか。二人はまるで日本の町からそのまま飛び出してきたような服装で、男は皺ひとつないロングコートを着ていた。

 目を輝かせて周囲の様子を見回すふたりは眩しかった。今の僕には物事に対する新鮮な気持ちが決定的に欠けていて、彼らのようなモチベーションで観光することができない。

 本当は、僕はもう旅を辞めるべきなのかもしれない。安宿のカビ臭いシーツに包まってこんな文章を書いていると、沈黙の底なし沼に引きずり込まれてゆくような気持ちになる。日本に帰ってゆったりと新生活の準備をするのが正しい選択なのかもしれない。もっと、前を向くべきなんだ。1か月前に出発した時からずっとそう思っていた。それなのにどうしてか僕は歩みを止められない。陰鬱を携えて、また次の町へのバスに乗る。