あまりに強く後光が射すから

 夜に訪れるイランのバスターミナルは、いつも寂しげだ。

 イランは産油国ということもあってバスの価格が安く、またバス自体のクオリティも高い。だから、少しでも節約したい旅行者たちはここぞとばかりに夜行バスで移動する。僕も同じで、前回に来たときも今回も、夜のバスターミナルばかり見ていた。

 

 イラン中部のとある町。砂漠の中にある、路地のどこを切り取っても絵になる素晴らしい町を後にして、僕は旅の終着地であるテヘランへと向かおうとしていた。バスターミナルに着いたのは17時頃で、バスの出発は21時半だった。午前中に宿をチェックアウトしなければならなかったし、あまり遅くに来て席が無くなっていても困るので、多少待つのは仕方がないと割り切っていた。

 4時間半、特にすることもないのでひまわりの種を買った。日本ではあまり馴染みがないが、ひまわりの種を食べる国は多い。歯で殻を割って、中身を取り出して食べる。初めは難しいのだが、慣れるといい暇つぶしになる。それに飽きると本を読み、日記を書いた。外はもうすっかり暗くなっていた。

 ふと、気分転換に少し歩こうと考えた。バックパックをベンチに縛り付け、人のまばらなエントランスを抜けて外へ出る。町から少し離れたバスターミナルの周辺は荒涼とした砂漠になっていて今は暗闇が支配していたが、向こうの方に、さっきまでいた町がまるで希望の光のように輝いているのが見えた。

 昼間の照り付ける太陽が沈むと、周囲の気温は一気に下がる。乾燥した冷たい空気がピンと張り詰め、周囲に心地良い緊張感を与えていた。赤い照明が辺りをうっすら照らし、ベンチは長い影を作っていた。空には満月が浮かんでおり、表面を薄く雲が覆って幻想的に見えた。そんな中にぼんやりと佇んで、ふっと息を吐き出したとき、どうしようもない寂しさに包まれた。

 

 次のバスに乗ればその先はない。旅が終わる。いや、それだけじゃない。この旅の終わりは様々な終焉を象徴しているのだと、その時やっと気付いた。数日前に大学の卒業式があったらしい。大学生が終わる。今までのような、気ままで無責任な日々が終わる。庇護の下での安息が終わる。自分のための日々が終わる。

 幼稚園から大学まで、長く続いた「学生」という区切りを終え、僕は大きな構造の一部として他者に対して責任を負う立場になる。それはこうした「旅」とはあらゆる面で対極に位置するものかもしれない。その瞬間がすでに、夜行バス一回分の距離にまで迫っているのだということに、寂しげなバスターミナルの入り口で気付いた。

 僕はもうこれから、ふと辛くなった時に、そっと心のドアを開いてこの甘美な日々を懐かしむことしかできない。もし仕事を辞めて再びこういった生活を始めたとしても、それは今の日々とは重ならない。「若さ」という尊い財産がその頃の僕にはもう、ない。

 栄光の日々よ、栄光の日々よ、さようなら。そして永遠なれ。