僕は"良い子"だから遅刻なんてしない。

 大学一年生の冬。僕は「授業に遅刻できない病」に犯されていた。朝起きると、どう考えても授業開始に間に合わない時間で、おそらく15分ほど遅刻してしまうだろうという時、僕はつい「……休もうか」といった具合で、再び布団に潜り込んでしまうのだった。

 僕は授業に遅刻するくらいなら休んでしまおうという考えに陥ってしまっていた。冷静に考えれば遅刻してでも授業を受ける方がいい。絶対にいい。だけど僕は「遅刻」が嫌だったんだ。遅刻することは授業を休むこと以上に後ろめたかったんだ。

 どうしてそれ程までに「遅刻」が嫌だったのか。その原因はたぶん中学高校時代にある。僕が通っていた小学校では朝遅刻してくる生徒なんてそれ程いなかったと思う。何かの事情で遅れてきた人は注目の的だったし、その理由も寝坊なんかではなくて、家庭の事情とかそうしたものだった。「遅刻した人」には"朝に特別なことをしてきた特別な存在"というイメージがあって、実際僕も病院へ行ったか何かで遅刻したときは「罪悪感」より「遅れて登校するワクワク感」の方が強かったことを記憶している。

 中学校に入ると状況は一変する。遅刻はもはや日常茶飯事で、理由だって大したものじゃなくなる。3限や4限から来る人なんてザラにいる。もちろん僕は遅刻なんてほとんどしない。"まじめ"だったからだ。通知表を取り出してきて確認したんだけど、三年間で遅刻は二回。欠席はなしだった。遅刻する人々は僕とは全く別の人種で遅刻なんて「悪い子たち」がすることだった。

 高校生になって、3限や4限から登校するような人は減った。基本的にはみんな学校にやってくる。ダルいからサボるなんて人はあまりいなかったと思う。僕だって、サボるなんてことは思い付きもしなかった。時々、1限目が始まってしばらくしてから登校してくる人もいたけれど、朝に電車を一本逃してしまったとかいう理由で、とにかく遅刻してでも学校には来ていた。そうした人々は「遅刻はいけません」という指導を受けていた。

 「遅刻はいけないことである」と怒られている人々を横目に見ながら僕は中学と高校を過ごした。「遅刻=絶対悪」という構図を抱えたまま僕は大学に進学する。高校は家から歩いて5分もかからない場所にだったのに、大学は電車で1時間以上かかる。入学当初こそやる気に満ちあふれていたから毎朝起きることができていたけれど、冬頃になるとモチベーションの低下に加えて寒さも手伝って僕の目覚めは悪かった。そしてある朝、起きると授業開始まで1時間半しか時間が無い。今から用意するとして、どう頑張っても15分は遅刻してしまう。そこで僕は思う。「遅刻?遅刻するのか…?この自分が…遅刻? 遅刻は悪だ。遅刻なんて良くない。ならいっそ……」そうして僕は欠席することに決めるのだった。不思議なことに欠席に対するハードルは低かった。最初こそ抵抗はあったが、一度やってしまえばあとは慣れたものだ。思い返せば、欠席をしたことで怒られている人なんてあまり頻繁に見るものじゃなかったし、実際大学では欠席したって怒られはしない。自主自律の大義を掲げて、そもそも最初から存在をなかったことにできるんだから気楽なものだ。

 「遅刻するくらいなら休めばいい」一度そうした考えで固定されてしまったものを解消するのは大変なことだ。実際、今でも遅刻だから休むということはあるし、解消はされていない。(でも今は寝坊自体が一時期に比べると少なくなった)本当は「遅刻してでも出席する」方が自分のためになることは分かっているんだ。でも、僕は"まじめ"だから遅刻なんてできない。僕は「悪い子」とは違うから。