頭の中の浄土

 僕は頭の中に自分の世界を持っている。具体的に描写するのはやめておくが、そこは現実世界ではあり得ないような光景が広がる場所だ。そこで僕は、あらゆる事象から解放されて安らぎを得ることができる。

 行くのは大抵夜だけど、ふと気がつくと授業中なんかにも僕の魂はフラフラと身体を抜け出して、理想郷への旅に出る。そこは、あまりに近くてあまりに遠い。もし僕に絵心があれば、もう少し近づけたのかもしれない。

 

 考えてみると、その場所へ行くのは現実が辛い時がほとんどだ。僕は無意識のうちに安らぎを求めて、心の中にあの空間を思い浮かべる。そこに閉じこもって内側から鍵を掛けてしまえば、不安や辛さから一時的に逃れられる。

 つまりは現実逃避に過ぎないんだ。はっきり言って何の解決にもならないことくらい分かっている。分かっているけれど、どうしてもやめられない。これ以上、手軽に安心感を得られる手段を僕は持っていないからだ。

 

 あるいは厭世観が強いから、こんな風にすぐ自分の頭の中に閉じこもるのかもしれない。僕が古典文学に興味を持って、仏教関連で卒論を書こうとしているのも、厭離穢土みたいな思想に惹かれたからだと思う。 

 もちろん僕の日常にだって、楽しいことはたくさんある。だけど、心の奥のどこかに、この世を厭う気持ちが根を張っている。「終末」というモチーフに惹かれるのも、結局はそういうところが原因なんだと思う。

 「厭離穢土、欣求浄土」とかつての人は言ったけど、結局その頃から何も変わっちゃいなくて、僕が辛い時に想起するあの世界は一種の浄土なのだろう。実際、死んでからあの世界に行きたいかと問われれば、僕は行きたいと思う。