無責任な観衆

 いかにも子どもっぽいというか、尖った中学生みたいな意見なんだけど、僕は人々が口を揃えて「受験生の皆さん頑張ってください!」みたいに言うことについて、どうも好感が持てない。もちろん僕だって受験生が後悔しないように自分の力を出し切ることができればいいなと思っている。だけど、僕がTwitterやなんかで「頑張って下さい!」なんて言ったところでどうにもならないし、それはあまりにも無責任な行動なのではないか、なんて思ってしまう。まぁ多くの人は自分自身も受験を経てその大変さが分かるからこそ、そういう発言をするんだろうし、その気持ちは本当によく分かるからあんまり強く糾弾する気にはならないけどさ、いまいち釈然としないんだ。

 「受験生頑張って下さい」に発言ついては大きく二種類に分けられる。一つ目は、教師や塾講師など、実際に一部の受験生と関わりを持っている人の発言だ。この人たちの「受験生」というのは、その背後に特定の人物群が想定されている。「受験生」とは言いつつも、実際は自分に関わりのある個人を応援している。二つ目は、特に受験生との直接的関わりのない人による発言。この場合の「受験生」というのは漠然としている。別に誰のことを述べているわけでもないし、本当のことを言ってしまえば誰のことも応援なんかしていないんだ。僕だってさっき「受験生が後悔しないように自分の力を出し切ることができればいいなと思っている」なんて言ったけど、別に誰の応援もしていないし、それは単に「センター試験に失敗して絶望している子がいる」ということを想像すると気分が暗くなるから嫌だな、というだけの話なんだ。

 こんな言い方をしちゃアレだけど、後者のような発言はしばしばパフォーマンス的要素を含んでいると思う。対象に向かって言及しているように見えて、結局は自己表現なんだ。色々なところで散々言われている「"ご冥福をお祈りします"問題」と同じ類いなんだろう。応援したい気持ちは確かにあるかもしれないけど、そこには同時に"気軽さ"が存在している。真剣なことなら、そんな朝の挨拶のついでみたいな気軽さでツイートしないだろう。そもそも、受験生全般に向かって頑張って下さいなんて言ったって、受かる人もあれば落ちる人もあるんだからさ。落ちる人もいるってことを全く無視して「みんなが満足のいく結果になりますように」なんて無理なんだよ。そこのところを完全に無視しているというところに、自分は単なる観衆であるという無責任さが表れていると思うんだ。

 

 僕たちは基本的に何かに乗っかることが好きなんだと思う。普段おちゃらけていたって、センター試験当日になれば「頑張ってください!」って言うし、震災の日には襟を正して「このことは語り継いでいかなければなりません」なんて言うし、誰か有名人が亡くなれば「ご冥福をお祈りいたします」なんて言ってしまう。様式美なんて言葉があるけど、僕たちは一年中お約束だらけだ。「あけましておめでとうございます」の挨拶であったり、4月1日の嘘であったり、クリスマスの独り身アピールであったり、バルスであったり、それらは全てお約束で、みんなつい気軽に乗っかってしまうんだ。見方を変えると、僕たちはとてもノリのいい国民なのかもしれない。