自己愛性就活障害

 就活のことについて考えていたんだけど、ひとつ気が付いたのは自分に労働意欲があるということだ。つまり、僕は就職はしたいけれど就職活動はしたくないということだ。なんとも虫のいい話だなと自分でも思う。どうしてこんな風になってしまったのかということなんだけど、これは前回の記事と関連がないこともない。

 過度な管理教育や受験戦争、偏差値教育に対するアンチテーゼとしてのゆとり教育。僕はおそらくゆとり教育直撃世代だと思うんだけど、個性を尊重して大切に育てられすぎてしまったんだ。別にかけっこで手を繋いでゴールだとか、主役が5人も6人もいる劇だとかそんなものはなかったけど、何をするにしてもそれほど競争を煽られた記憶がない。大学受験の時だって、あくまで「自分との戦い」であって、隣の席の人間は敵であるなんて意識はあまりなかった。みんな僕のことを大切に扱ってくれたし、僕はそれにすっかり慣れきってしまった。

 だけど、就職活動は競争だ。生きるか死ぬかの椅子取りゲームだ。高校受験で失敗しても大学受験がある。大学受験に失敗しても就活がある。じゃあ就活に失敗したら?僕は今までそこまでシビアな戦いに巻き込まれたことがない。「他人を蹴落としてでも自分の成功を掴み取る」みたいなことは一度もなかったし、大人たちは僕にそうした世界があることさえ見せないようにしていた。僕はバカだった。綺麗事で世界が回ると思っていたんだ。

 僕がそんな風に「他人を蹴落としてでも~」とかいう世界があることを信じなかった理由のひとつとして、これまで自分自身に強烈な劣等感を感じたことがないということが挙げられると思う。そりゃ確かに僕にだって苦手なことはたくさんあった。だけどそれ以上に得意なこともたくさんあった。高校受験も大学受験も、自分の目標に到達できた。幸せなことに、僕はこれまで大きな挫折を味わうことなくここまで来てしまったんだ。

 大学生になって僕の頭のお花畑はさらに咲き乱れる。個性を尊重して育てられた僕は、"自分らしさ至上主義"の名の下に好き放題してしまうんだ。休学して旅に出たのなんてその最たるものだ。そうして僕は"かけがえのない自分"を手に入れた。僕はそれを手に入れることはとても価値のあることだと教わってきた。自分自身を愛することは素晴らしいことだと信じていた。

 

 今、僕の行く手を阻んでいるのはその自己愛だ。僕は自分自身を好きになりすぎた。自分が未だかつてない激しい競争によって敗れ去ってゆくことを想像すると怖くてたまらないんだ。自らを価値のある存在だと思い込んでしまっているからこそ、それを否定されるのが恐ろしいんだ。きっと僕の心の奥底には、自分のやってきたことは正しかったのだろうかという疑問がある。自分自身を愛しながら、自分自身を心の底から信用できていないんだ。「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」とはよく言ったものだなと感心してしまう。

 時々ふと「戦わなければ負けることはない」という言葉が頭をよぎる。みんなと同じ土俵で戦わず、例えば院試という道に進めばいいのではと考えたりする。きっとそれは逃げるということなのだろう。でも僕は自分が可愛いくて可愛くて仕方がないんだ。